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2018沖縄県知事選候補 玉城デニー

基地の町のロック少年が沖縄県知事に立候補するまで【玉城デニー インタビュー 前編 生い立ち編】

「立候補の話がきた時は突然のことでしたから本当にびっくりしたんです。でも、もう腹はくくりました」

翁長雄志前沖縄県知事の急逝により突然決まった沖縄県知事選。立候補を決めた玉城デニーはそう語った。

1959年生まれの58歳。政治家としては異色のキャリアを持つ彼は政治家として活躍する前から、ラジオのパーソナリティやタレントとして沖縄ではよく知られた存在だった。

アメリカ人である父親の顔を知らないまま、働き者のウチナーンチュの母親に育てられた。子ども時代は経済的には苦しかったが、シングル・マザーとして昼夜問わず働く実の母と、そのあいだ面倒を見てくれた育ての母、「2人の母」に見守られて幸せだったという。高校生でロック・バンドを結成し、若い頃には福祉や内装業、一時期はバンドマンや音楽マネージャーまで、様々な職も経験した。

41歳で沖縄市議会議員にトップ当選し、やがて国会議員へ。国政の舞台でも、多様な人たちと関わりあいながら過ごした等身大の姿のまま、沖縄の目線を忘れずに活躍してきた。

「僕の経歴は政治家としては異色だけれど、だからこそ沖縄で暮らす“ふつうの人たち”の現実をわかっているはずだと思う」

翁長前知事は保守政党の地盤を引き継ぐ政治家一家の出身だったことを考えれば、異色のキャリアを持つ自分が後継として名前を挙げられたことにデニーが驚くのも無理はない。しかし、いまは翁長前知事が志半ばで倒れた仕事を引き継ぐことは自分にしかできない、と確信しているという。

「沖縄はこれから新しいステージへ向かおうとしている。翁長さんは、アメリカ統治下の沖縄も、復帰後の沖縄もずっと見てきて、ついに沖縄のアイデンティティを十分に発揮できる時代がきたんだ、と決意して知事になったんだと思います」

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——このインタビューでは、デニーさんの生い立ちというか、半生について聞きたいと思ってます。生まれたのはどんな家庭で、デニーさんはどんな子どもでした?

とってもわんぱくな小僧でした。僕の本名は康裕ですけれど、最初、母は僕を「デニス」って名付けたんです。父親は当時基地に駐留していたアメリカ人で、僕がお腹にいる時に帰国命令が出てアメリカに帰りました。母は僕が生まれた頃にはまだ僕を連れて渡米するつもりだったそうですが、いろいろと考えて、僕が2歳の頃に、「沖縄でこの子を育てていく」と決意しました。渡米しても苦労も多いだろうという周囲の説得もあったみたいですね。

当時の沖縄でシングル・マザーとして僕を育てていく、というのは並々ならない決意ですから、その時に母は父の写真も手紙も、全部捨ててしまったそうです。だから僕は父の顔もどんな人なのかも全然知りません。物心ついてから母親に聞いても、「もう忘れた!」としか言わないんです(笑) 僕も成人した後、一度父を探そうかと思ったこともありましたが、いつしか「生きていればそのうち会えるかな」という風になりましたね。世の中にはいろんな家族の物語があると思うけれど、それが僕の家族のストーリー。僕の原点です。

——デニーさんには、そのお母さんだけでなく、育てのお母さんもいらっしゃると聞きました。

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——そういった家庭環境というのは当時の沖縄では一般的だったんですか?

うちが一般的といえるかどうかはわかりませんが、自分の子どもじゃなくても愛情をもって育てて、叱るときはちゃんと叱る、そういう文化は、沖縄独特の地域社会の絆といえるかもしれません。苦しい時代だったけれど、そんな中でもウチナーンチュらしさというか、身内も他人も関係なく心を通わせる、そういう暖かさに包まれていた気がします。実際、アンマーとその家族に、僕はずいぶん甘やかされて育ちました。おかげで、悪くいえば悪戯坊主、よくいえば積極的な子どもでした。好奇心が強くて、なんでも自分でやってみないと気がすまない。その性格はずっと変わっていないかもしれません(笑)

基地の町のロック少年

——中高時代はどうでしたか?

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「今日は後ろの予定が詰まってるから…」と言っていたが、その予定とはバンドの練習だった。「しばらくは忙しくなるから練習はできないね」とメンバーと笑いあった後、思いっきり歌っていた。

——ハードロックが好きだと聞きました。

僕が中学時代の日本には井上陽水や吉田拓郎、かぐや姫といったフォーク・ミュージックのブームもありました。だから実は僕も最初はフォークに熱中していました。友達同士でギターのコードを教え合って、とにかく寝ても覚めてもギターに触っている中学時代。でも、その頃からロックにどんどんのめり込んでいったんです。小さいレコードプレーヤーを母親に頼み込んで買ってもらって、あとはお小遣いを貯めてはレコードを買って。ディープ・パープルとかブラック・サバスとか、70年代のブリティッシュ・ハードロックに一番引き込まれましたね。レコードの貸し借りもよくやりました(笑)

——高校時代にバンドを結成したと聞きました。

友達の先輩から楽器を譲ってもらったのをきっかけに、仲間たちと「ロックバンドをやろう!」と盛り上がって。そしたら友達から「お前は顔が洋風だから英語の歌を歌えるはずだ!」と言われ僕がボーカルに。僕は沖縄生まれ沖縄育ちの生粋のウチナーンチュですから、英語なんて喋れるわけがないのに(笑)

——青春映画に出てきそうなエピソードですね(笑)

それからはもう、ロックイズマイライフ!です。とにかく楽しかった。70年代の沖縄には、「紫」という伝説的なバンドがあって、すごく憧れましたね。70年代の沖縄の音楽シーンは今でも僕の中では特別で、とにかく色んな人たちが自分にとってのカリスマとして存在しています。

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——一方で、デニーさんが10歳の時、1970年に有名な「コザ暴動」が起きます。米兵が沖縄人をひいた交通事故がきっかけで、アメリカ統治下の沖縄での圧政や人権侵害に対する沖縄の人たちの怒りが爆発した事件として知られてます。デニーさんも目撃されたと聞きました。

子どもながらに衝撃的な光景でした。その時、僕と母はコザの「センター通り」というバーが連なっている通りの一つ裏に住んでいました。あの土曜日の夜も、ものすごく騒がしかった。土曜の夜は翌日休みだから、母もテレビでやっているロードショーなんかをよく観せてくれていたんですが、危険を察知したのかその日は早くに雨戸を閉め、鍵をかけて静かにしていました。そしたら明け方にサイレンの音や人が走る音、叫び声なんかが聞こえてきて。好奇心がうずいた僕は、早朝に家を出て、近所の友達と現場を見に行ったんです。

——すごく貴重な体験ですね。どんな光景でしたか?

群衆が集まっていました。車は焼け焦げ、ひっくり返されて、煙が立ち上がり、オイルの匂いやタイヤの焼ける匂いが充満していました。僕は何が起こったのかわからなくて、「戦争が起きたのか」と思いました。嘉手納基地のゲートの前から焼けた車がずっと連なっていたのを覚えています。見ている群衆はいっぱいいるのに、なぜかとても静かでした。誰も騒いでいなかった。

——暴動が収まった後とはいえ、静かだった、というのは意外ですね。

前の日になんだか街の空気がいつもと違うなと思って胸騒ぎを感じていたことと目の前の光景がつながって、何が起きたのか理解しました。あのとき群衆は、「ついに起こった」という気持ちだったのか、「そこまでやってしまったのか」という気持ちだったのかわからないけれど、静かに見ていましたね。実は、後になって暴動を伝える新聞の写真に、現場を見に行った僕とその友人が写り込んでいたんです。「これ俺たちだ!」と驚いたのを覚えています。

慣れ親しんだコザのストリートを案内してくれた。

——今からみて、どんな意味を持っていると思いますか?

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先代から知っているというお店でタコスとサンドイッチを買った。先代はミュージック・バーだったらしいが、現在のオーナーさんになってからタコス屋も始めたのだという。待っている間も楽しげにコザの思い出話を聞かせてくれた。

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——高校卒業後は、どのような進路に進まれましたか?ラジオ・パーソナリティとして活躍する前は、色々な職を経験したと聞いています。

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沖縄に帰ってからは、福祉関係の事務を2年間。でも、本当はケアの現場で働きたかった僕には、事務職というのはあまり馴染まなくて。そしたらよく出入りしていたセンター通りのライブハウスで演奏していたバンドに欠員が出たというので、友人からミュージシャンとして誘われたんです。事務局を任期満了になったので退職して、半年は仕事としてバンドをやっていました。誰かの役に立ちたいという強い想いはありましたが、自分探しをしている若者でしたね。でも、そこで僕は現在の妻と出会った。結婚なんかも考えるようになって、よくある話ですが、「もう足も手も洗わなきゃ」って(笑)

バンドを辞めて、新しく就職したのは内装関係の会社でした。しばらく勤めた後、もともとなんでも自分でやっちゃう性格が出てきて、独立して内装関係の会社を立ち上げました。でも若くして会社を立ち上げても、なかなか世の中は厳しい。そういう意味で、自分にとっての天職?探しはまだ続いていました。

——デニーさんは29歳の時にラジオの仕事を始め、その後はタレントとしても活躍します。転機はどんなものでしたか?

最初のきっかけは、タレント関係の事務所をしていた先輩に「人が足りないから来て」と言われて、バンドのマネージャーの仕事についたことです。それでラジオ局に出入りするようになって、半年くらい放送局の人たちと一緒に仕事をしていたら、ディレクターが「デニーはロックが好きだし、少しラジオで喋ってみない?」って。二つ返事で「いいですね、やります!」と答えました。最初はアシスタントから。それが29歳の時で、30歳になったときに独立して、その後は、12年間ラジオで喋っていました。

——ラジオのパーソナリティをやっていて印象的だったエピソードはありますか?

やっぱりリスナーとの双方向性があることと、なにが起こるかわからないライブ感ですかね。テレビは今も昔も一方通行だけど、ラジオは双方向性があって、ハプニングだって起きます。当時はSNSもメールもないから電話やハガキ、ファックスでしたけど、ラジオ番組をつくるということは、リスナーと一緒にコミュニティやネットワークをつくることなんです。つねに面白い番組をつくるには、僕も勉強しないといけないし、いろんな現場でいろんな人と会わなきゃいけない。僕はもともと好奇心が旺盛だし、人が大好きだから、性に合ってたと思います。このまえもふらっと入った沖縄そば屋で「デニーさん! ラジオで何々って言ってたでしょ!あれ面白かった!」って。もうラジオの仕事を辞めて20年も経つのに、嬉しい声でしたね。自分が面白いと思うことをやっててよかったなって思う瞬間ですね。

自分のビールはいつも必ずオリオン・ビール。他のビールも美味しいけれど、「やっぱりなにか違うな」と感じるという。

ある「事件」をきっかけに政治家へ

——ここまででもすでにすごく波乱万丈ですけれど、そこから政治家になったきっかけを聞かせてください。

ラジオの仕事を続けるうちに、それまでの自分を振り返って、とにかく人を喜ばせる仕事が好きなんだなってわかったんです。もっと人の役に立つ勉強がしたいと思い、福祉や沖縄が抱える問題について知ろうといろんなシンポジウムや無料講座に顔を出しました。当時はNPOへの関心が高まっていたこともあり、そういう場に行くと、地方議員や大学教授、市のスタッフや僕らみたいな普通の市民まで、いろいろな人が集まって、刺激的な議論をしていました。その中で「君、政治家になったら?」と言われることが多かったんですが、自分はまるで本気にしていなくて。政治家になれば沖縄の現状を変えられるのかな、とは思いましたが、それをやるのは自分じゃないだろう、とどこかで逃げていました。

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移動中に昼食。国会議員になってからは、願かけで肉やほ乳類系を絶っているので、タコス屋で作ってもらったツナ・サンド。ツナとみじん切りにした玉ねぎをマヨネーズ風味のエゴーで和えたもの。自分でもよく作って食べるそう。

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正直な話、しばらくは落ち込みました。母親からも「ばかだねえ、あんたは」と呆れられて。何ヶ月も意気消沈していました。でも、ある朝、髭を剃る時に鏡を見つめていたら「お前は何がしたいんだ。自分で決めなさい。人に振り回されるんじゃなくて、結論は自分で出さないと後悔するぞ」って。「後悔したくなければ自分で結論を出すんだ」と鏡の中の僕が僕に問いかけてきました。

涙を流しながら、「もうわかった。自分で決める」と。こうなったのも何かの因縁だ。やるからには、これまでの経験を総動員して、ブレずに政治の道を極めてみよう」と思いました。それまではなんていうか、水の底にいるような感覚でしたね。水面を見上げると光が見えるんだけど、誰かが自分の足を固定していて、よく見るとその誰かというのは自分で。水面に上がっていかないと溺れて死んでしまうと思って足を引っ張る自分を振り切り、一生懸命水をかいて浮き上がったら、沖縄の青空が待っていた、そんな感じです。人を笑顔にする仕事なら、政治がいちばん大切な役割を担っているはず。もちろんたくさんの勉強が必要だし、つらいこともあるでしょう。でもいろんなことを経験した僕だからこそできることがあるはず。だったら逃げずに、ぶれずに向き合おうと。

紆余曲折したからこそわかること、できること

——実際に政治家になってみてどうでしたか?

市議会議員として働いてみて、自分が持っていた好奇心や、なんでも自分でやってみようという独立心は、とても役立つことだと気付きました。僕は10歳から母と二人で暮らしていたから、料理も食器洗いも洗濯も、アイロンがけも全部自分でやらなくちゃいけなかった。地方自治も同じなんです。法律があっても条例をつくって対応するし、役所に法律の不備を言っても動けないということであれば、国会議員に働きかけて法律の整備を要請したり。

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4人の子どもに恵まれて、最近は孫も2人生まれた。

——翁長さんはデニーさんについて「戦後沖縄の歴史を背負った政治家」と表現されていたそうです。そのことについてはどうですか?

僕には、ずっと「アイデンティティ」という言葉に強いこだわりがあります。米国人の父親と、日本人・沖縄人の母親の間に生まれたから、2つのルーツを持っているけれど、僕は沖縄で生まれ育って、英語も片言しか話せない。僕自身は、生粋のウチナーンチュなんですよね。

ウチナーンチュらしさというのは、伝統を守りつつ、新たなものを取り入れて、柔軟に、たくましく変化していくこと。その意味で、たしかに僕は戦後の沖縄の歴史を象徴的に表す存在なのかもしれません。そういう人間が県知事候補にもなるような時代になってきた、それもひとつの変化だと思います。でも、僕だけじゃない。これからいろんなところからいろんな可能性が生まれてくると思うんです。沖縄も、日本も。誰にでもそのチャンスが生まれてくる、と。

——最後に、これは日本全体の傾向ですが、選挙の投票率は必ずしも高くありません。これまで投票に行っていなかったような人たちにむけてメッセージはありますか?

僕の側からいえば、知事を選ぶ際に基本になるのは政策ですから、まずは政策をわかりやすく、楽しみだな、参加したいなと思ってもらえることを心がけたいと思っています。

選び方はみなさんの自由です。僕はもともと政治家になると決めて生きてきた人間ではありません、でも、沖縄の未来のためになんでもやるぞと決めてから、政治の世界でもう20年。紆余曲折したからこそ、政治に関心を持てない人たちの気持ちもわかります。できるだけ、“ふつうの人たち”の感覚で沖縄の未来をつくっていきたいと思っています。

政治に関心がなくてもいい。でも、本当に自分の好きなことや、生活の中で困っていることを手繰り寄せていくと、意外なところで政治とぶつかったりもするんです。その時に逃げないで、考えてみてほしい。そしてできることなら僕がその思いに応えられる存在でありたいですね。

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